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梅若の涙雨
- 2008/03/14(Fri) -

                 021-1.jpg

                     今日は雨・・・
しかし、雨にもかかわらず雨間に外を歩いても、空気にはもう春を十分感じられた。
これからの雨は、一雨毎に冬の間に眠っていた木々の花の蕾や新芽を目覚めさせ、地の草花の発芽を誘う。
ちょっと車を停め、雨間を幸いに雨に濡れた梅の木まで歩いた。


   ☆ ・:*:・゜ ,。 ・:*:・゜☆ ・:*:・゜ ,。 ・:*:・゜☆ ・:*:・゜ ,。 ・:*:・゜☆

時・・・円融天皇の御代(970-980)のこと。
比叡山延暦寺は月林寺に梅若丸という学業に優れていると評判の稚児がいた。
その稚児は都の吉田少将惟房とその妻斑女との子として生まれたが、齢5歳の時に父惟房が亡くなり、7歳の時に月林寺に入ったといわれる。

梅若丸の秀でた才が評判になった頃、同じ比叡の東門院に松若丸という稚児がいて、これも梅若丸と並びたるほどの学才と認められていた。
不幸の始まりは・・・梅若、松若それぞれを誇り、応援する僧侶たちが争いをする事態に発展してしまったこと。
12歳になった梅若は大いに悩み、己が比叡に在ることが諍いの火種と、密かに寺を抜け出した。

京の都に向かうつもりが、比叡の悪い天狗の悪戯か・・・間違って大津の方へと山を下りてしまった。
幼少時より比叡に篭った梅若は、世間に疎く途方に暮れた。
そんな梅若を陸奥の人買い商人信夫藤太は言葉巧みにかどわかかし、同じように集められた数人の少年たちとともに東国に連れて行く。

しかし、梅若は長旅の疲れも重なって病となってしまい、武蔵国の隅田川の渡しに差し掛かった時には、もはや歩けないほどの重態になってしまった。
信夫藤太は、これを厭い、もはや売れない梅若は足出まといとばかりに梅若をその場に打ち捨てて、他の少年達を連れて川を渡って行ってしまった。
弱った梅若を土地の人々が哀れに思い、様々手を尽くしてくれたのだが、そn甲斐空しく梅若はまもなく息を引きとった。

「たずねきて問はば答えよ都鳥すみだ川原の露と消えぬと」というのが辞世だと言われいる。

梅若は土地の人たちによって手厚く葬られ、そこに塚が作られた。
それが梅若塚として今に伝わる。

梅若丸が死んだのは貞元元年(976)3月15日(旧暦)のことと言われ、以来、江戸時代には毎年3月15日は「梅若忌」と称され、大念仏が行なわれた。
この日はよく雨が降ったそうで、その雨は「梅若の涙雨」だと言われた。


   ☆ ・:*:・゜ ,。 ・:*:・゜☆ ・:*:・゜ ,。 ・:*:・゜☆ ・:*:・゜ ,。 ・:*:・゜☆

そんな梅若の悲話を彷彿とさせる雨の日だった。
雨滴を湛えた梅を撮ってみたが、その途中に桜の蕾もかなり膨らんできているのに気付いた。

一雨毎に春はその色の濃さを増していく・・・そんな季節。
今週末は温かいらしい。
さて・・・何処かに春らしい光景でも観に行こうかと思いつつ、また降り出した小雨の中を車へと戻り仕事に復帰した。

                 021-2.jpg



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コメント
- 悲しすぎる雨。 -

僧侶は争い事が好きだったのかナァ
権力に取り入る僧侶も多かったと思う。
僧侶の争いさえなければ梅若丸も病に倒れることもなかったのにと思うと残念です。
12歳と言えば立派な大人になるのかな?
悲しいお話ですね(泣)

現代にも子どもの成績で競う親達が居ると思う。
「梅若の涙雨」こんなお話し知ってたら・・・争いも起きないかも。
2008/03/15 01:07  | URL | Lei Lei #-[ 編集] |  ▲ top

- Lei Leiさんへ -

戦国までの寺院は僧兵を要し、他宗派を攻撃したりも行っていました。
比叡山にも遊女のような女人をかこったりの時代もありましたからね。。。
やり方の残虐性は良くないですが、比叡山を焼き討ちした信長の理屈はある意味正当性があると私は思っています。

権力に擦り寄らないと自らの宗派を広めていけない・・・しかし、権力に近寄りすぎると宗派の堕落を招いたり、修行や教えの純粋性を失いかねない・・・そんな矛盾を最も強く意識したのが弘法大師空海だと思います。
空海にとって前者の実践の場が東寺であり、後者を懸念して都から離れた場に開いた場所が高野山かと思います。
近年、高野山を初めて訪れた時にそう考えました。というより感じました。

この梅若の話しには・・・更に悲しい後日談があります。
梅若の死を知った梅若の母が・・・嘆き悲しみ、梅若を手元に置いておかなかったことを後悔して・・・自ら命を絶った・・・とのことです。

学業なんかの尺度で子供に心の重荷になるようなな過度の期待をかけてはいかんですね。。。+(⌒▽⌒;
2008/03/15 09:55  | URL | Haru.Seion #-[ 編集] |  ▲ top


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